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「ある女の存在証明」

脚本 今橋貴

教師が教師としての身振りを貫徹する。これが主人公小野今日子の行動を規定する唯一の原理である。今日子は教師であると同時に母親でもあるので、当然母親のように振る舞うのだが、この原理に従うと、その身振りは見せかけの、演じられた身振りということになる。

教師としての身振りは、必ずしも彼女の欲望に忠実に実行されるばかりでなく、彼女が意図せずとも、条件反射的に実行される。彼女は、理性と反理性の狭間で揺れ動きながら、囚われの身振りをひたすら反復する、不自由な人間なのである。故に、彼女の行動には苦痛が伴う。しかし、どんなに苦痛を感じても、絶望しても、彼女は囚われの身振りをやめることはない。やめられないのである。被虐趣味があるわけでもなく虚無主義でもなく両親からの影響があるわけでもなく過去のトラウマがあるわけでもなく経済的に貧困なわけでもない、唯の小学校教師は、唯の小学校教師でしかないからこそ、囚われの身振りをやめた瞬間に自身の存在が消失してしまうかのように、囚われの身振りこそが自身の存在証明であるかのように、苦痛や絶望と共に生きざるを得ないのだ。

今日子は、彼女を取り巻く人々の共感を拒み、理解を超えていく。最終的に、彼女の人生は誰の人生とも接続しない。この映画を観る人々の人生とも、この物語を書いた自分の人生とも、もしかしたら、彼女自身の人生とも。こうして、ある一つの事実が残る。今ここに人間の皮を被った「何か」が蠢いている。その「何か」のあられもない姿が、画面と音を通じてスクリーンにあらわれる時、人は、世界は美しい、と実感するだろう。映画の全ては「何か」を捉えるためだけに組織されなければいけない。

このような威勢の良い指針さえ決まれば脚本の半分は完成したようなものである。実はこれ、(主に1950年代までに作られた)古典映画の受け売りである。というか、ゴダールの受け売りである。何の話かというと、ガンマンはガンマンだから恋をするのではなく銃を抜く、というリンゴ・キッド的な、例のあれについてである。こんなことを言うと、全ては古典映画の中にある、と盲信していると思われるかもしれないが、まぁその通りなのだけれど、それだけでもない。では、それだけでない部分は何なのかと問われると、話はたちまち映画の現代性とは、21世紀の映画とは、みたいな話になりそうなので、非常に困る。その辺全くわからない。そんなんだから、おまえは駄目なのだ、という批判はごもっともである。

そういえば、現代映画の最先端をいく黒沢さんが『クリーピー』で、刑事は刑事だから家庭など顧みず狂った様に犯人を追いかけ最後には銃を抜いて犯人を撃ち殺す、という古典映画のあれを実行していましたが、皆さん、どう思いますか。その部分だけを取りあげて、鬼の首をとったかのように、『クリーピー』は古典映画的である、などと言うつもりは毛頭ないですが、では、どういった点を指して現代的な、21世紀的な映画と言えるんでしょうか。誰か教えて頂けませんかね。それにしても、スクリーンプロセスからラストに至る一連の流れにはめちゃくちゃ興奮しましたね。あの興奮と感動は一体何なんでしょうかね。

ぶっちゃけると、黒沢さんも2016年に、刑事は刑事である、というのを平気でやっているのだから、自分もやったって良いじゃないか、きっと大きな間違いにはならないだろう、という考えはあった。そのさもしさや甘えについては認める。しかし、芸大生は黒沢清ワナビーばかりで困る、などと頭ごなしに批判する輩には声を大にして言ってやりたい。映画史ってそういうもんじゃないっすか、スタジオシステムでの師弟とか作家同士の関係ってそういうもんだったんじゃないっすか(芸大はスタジオではないが)、ネーヴェルバーグもそうだったんじゃないんすか、シャブロルもあからさまにラングとかをパクってますけど、それについてはどう思うんすか、ていうか、あなた画面観てますか、自分らが誰のどこをどうパクってるか指摘してみてくださいよ。こういう反論もさもしいでしょうか。甘えでしょうか。自分のような浅い知識しか持たない三流の若造が古典映画やら映画史などとほざくのはみっともないでしょうか。それも重々承知ですが、じゃあ、どうすればいいんでしょうか。現在において自分はどういう風に振る舞えば良いのでしょうか。今日子のように自分もやれということでしょうか。どうでもいいことばかり言ってないで粛々と映画を撮れというということでしょうか。だから、今挑戦しているんですが、どうしたって自分は今日子みたいになれそうにないです。そもそも今日子的な身振りは正しいのでしょうか。先生、教えて下さい。

混乱の極みである。全てが間違いに思えてきた。一から考え直すべきか。一気に面倒臭くなってきた。酒飲んで横になりたい。そうも言っていられないのが更に辛い。撮影日が刻一刻と迫っているのだ。脚本が遅れると全てが遅れてしまう。皆に迷惑がかかる。それだけは避けたい。兎に角早く書き上げないと。

とりあえず、「何か」がなんちゃらの方針は変えない。あれしか拠り所がないのだから。途中で考えがブレたり問題が起きても、もう気にしない。出たとこ勝負である。次は、プロット作りだが、崩壊した家庭や教育問題や思春期の悶々にまつわる紋切り型のエピソードを団子状に繋げば良い。アカデミックな部分は、自分は学者や専門家じゃないので、脇に追いやって適当に処理する。タイトルは、講談社文芸文庫あたりの小説のタイトルとありきたりな単語を組み合わせれば出来上がり。あと、忘れてはいけないのが、制作的困難をコスパ良く処理するための配慮である。小学校のロケ地はお金がかかるし、撮影条件も厳しいに決まっているので、このような低予算映画で真っ向勝負するのは得策じゃない。上手い手がないかあれこれ考えたが結局ダメだった。どうしても面倒くさいことになってしまう。その代わり、なるべく今日子の家で押すように書いたが、それでコスパが良かったかどうかもわからない。タップダンスをはじめとした相当面倒くさい要素もあちこちに足してしまった。なので、ボリューム的にはギリギリかギリギリアウトだったかもしれない。スタッフの方々、大変な労働をさせてしまい申し訳ありませんでした。この場を借りてお詫びします。

こんな感じで脚本(のようなもの)は一応出来た。監督は最終的な脚本をどう思っただろうか。彼の演出の腕前を良く知っているから、こんな欠陥だらけの脚本でも、何とかやってくれるだろう、と楽観的でいられるのだが、果たして演出を楽しんでもらえただろうか。自分の戯言など無視して思う存分好き勝手にやってもらいたい。

今日子役を演じるのは世界屈指の情操女優山田キヌヲさんである。知っての通り、山田さんの芝居は、観る者に芝居とは何かを問いかけてくる教(狂)育的な芝居である。まったく、役にうってつけという他ない。